家族性乳がん家系 あとから橋本病がついてきた しっかり生きよう優璃の徒然ブログ

2011年6月乳がん告知、2012年3月初期治療(抗がん剤・手術・放射線治療)が終了。家族性乳がん家系で、サブタイプはトリプルネガティブ。現在経過観察中。卵巣がんの腫瘍マーカーが上がってきているけど落ち込むのは3日。日々楽しく生きることを念頭にいろいろな出来事などを書いています。家族全員ががんに罹患。

故郷に帰る

今日久しぶりに生れ故郷に帰りました。
私の出生地は東京都町田市です。10 歳まで住んでいました。
町田に行った目的は父の古い友人のお誕生日 ( 80 歳) を祝う食事会兼、私のお見舞いをしてもらったお礼と元気な姿を見せることでした。
私のがん治療が終わってから 「いつかはお食事をしましょう」 と言ってきたのですが、今日やっとそれが実現しました。
父の友人は町田市玉川学園に住んでいるため小田急町田駅にあるさんるーむで食事会を開きました。
町田までは車での移動でしたが、食事の前に通っていた小学校、住んでいた団地、商店街等を見て回りました。
小学校は当時木造校舎でしたが、当然ながらすべて取り壊され鉄筋コンクリートの学校に変わっていました。
ただ小学校前にあった派出所は全く変わっていませんでした。
昭和 40 年代当時、私のいた小学校以外の近隣小学校は順次建て替えられていました。
建て替えは一番遅かったように記憶しています。
1 年生の時は木造校舎。2,3 年生の時はプレハブ校舎。お手洗いは水洗トイレではありませんでした。浄化槽だったような。
4 年生の 1 年間だけ真新しい鉄筋コンクリート校舎で過ごし、その後 5 年生進級時に現在の埼玉に引っ越しました。
小学校の校歌今でも覚えています。つか小学校のサイトがあるので忘れないです。
子供のころ活気のあった商店街はすべてシャッター商店街に変わっていました。
パン屋のおじさんとおばさんはどうしたんだろう。。。などと思ってしまいました。
1 件もお店が開いていない現実はかなり寂しいもの。
同級生のお母さんが経営していた用品店もなくなっていました。代わりにマンションが建設され。
ただ団地自体があるのはうれしい限りです。
場所によっては団地が取り壊され新しくマンションに建て替えられたりなどしますから。
懐かしさあり、反面 「あれぇ、こんなに小さな町だったっけ?」 と思ったり。
町田には親しかった友人が一人いてくれるので、今度は彼女との再会を果たそう。
食事会の後は一人電車で中目黒に移動し、パワーストーンのメンテナンスに行ってきました。
1 年の間に石がものすごくお疲れになっていました。
考えてみれば昨年 4 月末から蕁麻疹、内臓の機能障害など今年 1 月までいろいろ病気が見つかりましたから。
お店の人からすっごく良いお話を聞くことができ会話が弾み、今日はどこも行った甲斐がありました。
そして中目黒から埼玉まで東横線副都心線と乗り継ぎ帰宅。
楽です。本当に楽です。乗換が少ないのがとても便利です。